目を閉じると思いだすのは、生まれて初めてこの国を出た日々のこと。己の足で険しい山道を歩き、硬い地面に横たわって夜を過ごした。忍びに追いかけられたことも、逃げるために川へと身を投じたこともあった。なにもかもが初めてのことだらけだった。
「佐々木小次郎、参りました」
ふすま一枚隔てた向こう側から、小次郎のかしこまった声がする。ぼんやりと窓の外を眺めていた華ははっと我に帰返ると、視線で侍女にふすまを開けるよう促した。わたわたと慌てて机の上に置いてあった漆黒の小箱からいくつか折りたたまれた紙を取り出す。季節のことやら挨拶口上やらが長々と書かれたそれらを整理して、差出人の部分が見やすいようにしてから机の上に並べる。
「失礼します」
そっとふすまが開き、小次郎が音もなく入ってくる。その姿を確認すると、華は控えていた侍女に人払いを頼んだ。華が身の回りの世話を頼んでいるこの侍女はなかなかに優秀で、数秒もしないうちに華と小次郎以外、部屋とその周囲には人の影はなくなった。
ふぅ、と人がいなくなったのを確かめてから、華は肩の力を抜く。とたんに、低い笑い声が部屋に響いた。
「おいおい、女城主がこんなに気を抜いていいのか?」
「護衛がいるから平気です。私だって、四六時中気をはっていては疲れてしまいます。息抜きですよ、息抜き」
からからと笑う小次郎とて、人がいなくなった途端にかしこまった言葉使いも硬い空気も消してしまうのだから、このことに関してはお互い様だと華は思っている。主と護衛という関係上周囲を思い憚ってか周りに人がいる時は決して昔のようなくだけた雰囲気で接してこない小次郎がそれを止めるこの瞬間が、華はなによりも好きだったりする。
「それで、なんで俺を呼んだんだ」
「見てほしいものがあるのです」
これを、と華は卓上に並べた紙を示す。綺麗に折りたたまれたそれらは全て、諸大名から華へと送られてきた求婚をほのめかす文だ。内容はなんとなく察しがついているらしい小次郎はその差出人を見て、ふむ、と頷いた。
「とりあえず領地や由緒でいえば、一番は政宗サンだが」
「却下です」
一応は並べてみたその文を華はぺしっと指で弾いた。ひらり、と文が卓上から落ちる。
「一応理由を聞いておくが、なぜだ」
「政宗様は一国一城の主です。小次郎、我が家が求めているのは婿養子なんですよ? 私が嫁にいっては本末転倒じゃないですか。その旨を文にしたためて何度も送っているというのに・・・・・」
「・・・・・まあ、気に入られているんだろうなあ。逃げるように城から出てきたのもまずかったか。今まで女にそんな対応をされたことのない政宗サンに火をつけたというかなんというか」
小次郎が言葉を濁すその先が容易に想像できて、華は深くため息をつく。奥州の豊かさを考えると親交を深めておくにこしたことはない相手なのだが、結婚という点では彼は邪魔でしかない。しかも下手に力があるから無下に扱うこともできず、どうしたものかと華を悩ませるばかりである。
「政宗様に関しては、最後の手段として小十郎様に文を出せばきっとなんとかなります。というか、意地でもなんとかしてもらいます。こちらだってお家存続がかかっているんですから」
畳の上に落っこちた政宗からの文を拾い上げて小箱に戻す。しかし紙一枚戻したところで、卓上の文の数はたいして変わりはしない。
「甲斐に越後に飛騨に三河、けっこうあちこちから文が届いているじゃないか」
「ええ、別にこの中から選ばなくてはいけないということではないのですが」
病を理由に城主の座から退いた父はまだ存命で、娘のことを気遣ってか結婚に関しては華に全てをゆだねている。焦る理由などどこにもないが、それでもいつかは直面しなくてはいけない問題であった。
華が治める国は先の大戦で少なくはない恩賞を貰ったこともあって、小さいとはいえ豊かな国になりつつある。そのおこぼれにあずかろうと華に近寄ってくる大名が決していないわけではないから、婿選びも自然と厳しくなる。
それを理解しているからだろう、文を眺める小次郎の視線もどこか厳しかった。眉を八の字にして吟味する小次郎を見て、華の口元は緩やかに弧を描いた。
「ねえ小次郎」
華がその名を呼べば、小次郎はどうしたと顔をあげる。それがなんだか懐かしくて嬉しくて、余計に唇の端から笑みがこぼれる。
「私はこんな風にあなたとふたりで婿養子を選ぶ日が来るなんて、そんなの考えたこともありませんでしたよ」
共に手を繋いで山道を歩いた日々を思い出す。自分の使命に燃えながらも夢見がちでいることを許されていた、奇跡のような日々を。国を支えながらもいつかは恋慕う殿方と一緒になれることを信じていた甘い自分が、どれだけ両親に愛されていたかを知る。
「俺も」
くすくすと笑う華を見て、小次郎が苦笑めいたものをこぼした。
「まさか君の婿を見繕う日が来るとはな」
そもそも剣客として各地を流浪していた小次郎としては、自分がひとつの場所に身を落ち着けていることすら意外なのだろう。それを繋ぎとめたのが自分なのだと思うと、彼には悪いと思いながらもじわりと華の胸は暖かくなる。
華も小次郎も昔とはもう、色んなところがだいぶ変わってしまった。豆が潰れてはまた出来るを繰り返していくうちに厚くなってしまった華の足も、旅を終えた今では昔のそれに戻りつつある。昔では楽に歩けた獣道も、今ではどうなるかあやしいものだ。
目を閉じると思いだすのは、生まれて初めてこの国を出た日々のこと。己の足で険しい山道を歩き、硬い地面に横たわって夜を過ごした。忍びに追いかけられたことも、逃げるために川へと身を投じたこともあった。なにもかもが初めてのことだらけだった―――――――――だが所詮は、昔の話だ。
「小次郎、私は婿を取るのではありません。この国へ嫁ぐのです」
一国の姫として産まれ、そして城主となったからにはそれなりの覚悟がある。この髪ひとつじから爪の先まで、自分は民の為に存在しているのだと、強く思う。民の年貢で飯を食い、民の年貢で夜を明かしている御身分だ。ならばこの身ひとつくらい、民に明け渡さないでどうするというのだ。
「この国に住む民のひとりひとりが私の夫です―――――もちろん、あなただってこの国の民です。決して不幸にはしません」
真っ向から言いきると、小次郎は呆けた顔をしていた。小次郎のその顔がおかしくて、華は薄く笑う。一国の主となった時から、華は今まで色々なものを捨ててきた。それは女といての感情だったり彼の隣で白無垢を着ることだったり様々だが―――――どうしても彼だけは、捨てることができなかった。
俯いて噛み締めていた痛苦が今はただ懐かしい